遊び人のプルフィール

2018.12.11

戻る

遊び人の誕生
 堅実(たぶん)だったサラリーマンから『遊び人』への転身動機は、仕事に追われ好きな山登りも自由に出来ない日々が続くなかで、このまま定年まで働き続けた後に好きなことをやれる気力と体力が残っているだろうかと、真剣に思い始めた。その頃の夢はいくつか有り、パキスタンのバルトロ氷河へ写真を撮りに行くこと、6000m峰の登頂、テントを担いで自由に山登りが出来ること等であった。
1997年5月末、仲間の引き留めを振り切って50才にて早期退職する。
初の海外はまだ仕事人として働いていた1993年12月の台湾玉山登頂、その後、年2〜4回の割合で出かけていた。『遊び人』になった1997年からの山行日数は海外の活動を含めて、年間30〜40日が120〜150日に増えた。日本百名山も退職した年に登り終えた。
遊び人のその後
1997年5月に『遊び人』になって20年が過ぎた。当初描いていた夢や希望はほぼ望み通り達成できと思っている。15年目の2011年には一区切りとして山登りの山行記録も含めた自画自賛の写真集を制作してきた。遊び人の第二幕は少しスローながら、体力の続く限り「遊び人」らしく活動を続けたいと思っていた。
その後も以前にも増して山遊びと写真に頑張ってきた。
山岳写真
2001年から山岳写真家の内田良平氏の写真教室に参加する。氏の親切丁寧な指導を受け本格的に山岳写真を撮り始め、それ以前に撮り溜めた写真は殆ど捨ててしまった。その後も氏の主催する写真教室に14回も参加する。2007年からは通い慣れたネパールで、自分で企画して出かけて写真を撮り始めた。 2011年4月に写真集「ヒマラヤ仰望−夢に遊んで15年」を制作する。
 2001年から始めた山岳写真、2007年からは個人企画でネパール・ヒマラヤへ出かけてきた。その後も海外写真山行のほとんどを個人企画で続けてきた。サミットを含めた海外の写真山行は7年間で14回、それ以前とほぼ同じペースで出かけた。ランタン谷ではランタン氷河最奥まで歩いて、ネパール側からのシシャパンマを眺めてきた。ネパール・ヒマラヤ山群の主要山群をほとんど歩き、それ以前の海外の写真山行で撮り残した山々を探しては再訪してきた。また、フイルムの「相反則不軌」作用を利用しての再訪がさらに増えた。
2018年4月に「ヒマラヤ仰望U−憧憬の山々を仰ぎみて」を制作する。

病気・事故経歴
 
山遊び人としては大事な足だが結構痛めている。
★1988年12月22日
飲み会の帰りに泥酔状態で下車する駅前でタクシーにぶつかる。左大腿骨内顆骨折で救急車にて病院に運ばれる。 その後3月16日に退院し暫く温泉療養して解雇寸前の3月25日に職場復帰した。回復後の初山行は4月9日で丹沢の大山へ出かけた。
★1989年10月27日
関東労災病院に入院、30日に右足膝半月板手術をする。膝痛を我慢しながら山登りを続けていたが我慢できずに手術 をし、 11月18日に退院する。約3ヶ月後に完治、リハビリを始める。3月10日に手術後、丹沢表尾根に初山行をする。 その後一貫して大腿四頭筋強化 を心がけて、スポーツジムに通っている。膝痛は無くなったが、筋トレをサボると違和感(痛み)が出てくる。
★2001年9月25日
救急車で入院。パキスタンのバルトロ氷河トレッキングから帰国して4日目、お腹が非常に痛み出し我慢できず運ばれ る。 検査を繰り返すも原因がはっきりせず小腸の炎症と言われる。回復したので9日後の10月3日に退院する。 退院後4日後に予定通り チベットに 出かける。(周囲は唖然としていたが)

★2006年11月29日
左足静脈瘤の日帰り手術をする。約1ヶ月後の12月27日に1ヶ月検診で完治を告げられるも、その前の23日からに雪山山行 へ出かけた。傷跡も気にならず快調そのもの。
★2014年6月10日
右足の膝内側付近に膿腫が出来て切除手術をする。2週間で抜糸するも3週間頃に完全に開ききって、7月2日に再度 縫合手術をした。おかげで6月〜7月(多分)一度も山に行けない状態になってしまった。ストレスが溜まってしょうがない。
★2015年3月23日
とうとう花粉症になってしまった。2日前から目の中にゴミが入った感じして翌朝はしっかり充血してしまった。山行の予定があったがすぐさま病院・眼科へ出かける。かなりきつい花粉症です!と診断された。目薬を2ヶ処方されて1日4回点滴している。もう直らない!山遊びに少々支障を来すのかなー。仕方ない。(2015.03.24)
チベットの山行(旅行)で目が痒くて痛くなり帰国後眼科に行く。と、角膜炎になっているとのこと。少々心配である。(2015.05.07)
その後は春になっても花粉症の症状は出ず、単なる角膜炎だったのだろう。山遊びも心配なくやっている。(2018.12.11)

海外登山
 海外の登山活動も1998年に初の6000m峰・南米エクアドルのチンボラソ峰(6310m)に登頂する。その後、2000年にネパール・ダンプスピーク(6012m)2002年にネパール・タシカンT峰(6386m・未踏峰)2003年アイランドピーク(6189m)2004年ネパール・プルクン峰(6126m・未踏峰)にそれぞれ登頂する。その他として台湾・玉山、キリマンジャロ、キナバル、中国・大姑娘山、ウイルヘルム、メキシコ・イスタシワトル、カムチャッカ・アバチャ山、ネパール・ヤラ・ピーク峰などに登頂した。
 古希を迎えて最後になるだろう6000m峰にアタックして、アンナプルナ山群北部のチュルー・ファー・イースト(6059m)に6000m峰6座目として山の会の仲間と共に2017年10月13日に登頂した。
国内の登山
 国内の山登り(遊び)も海外の遊びに負けじと頑張り、退職と同時に東京の社会人山岳会に加入する。2005年に住まいを現在地に移したのを機に、大宮の社会人山岳会に移った。記録に残っている1983年からの山行記録での登頂数は、複数登頂を含めて***山になった。
 国内の山登りは関東地方を中心に年間約30回出かけている。また、テントを担いでの縦走登山、雪山、日溜まりハイク、登山道のない藪山や三角点峰を探して「山遊び」を充分楽しんでいる。
これから
 早期退職時に描いた遊びの長期計画は、65才までの
15年間をフルに体を使って山登り、写真撮影などをする。その為の資金は退職金と、辞めようと決めてからの貯金で賄うことで年間の活動資金を決めて遊んできた。しかし、予算の使いすぎで少しずつ赤字財政になりつつある。年金生活に入り、早期退職で少ない年金にもめげず、体力の続く限り『遊び人』らしく活動をしたいと思っている。
2011年4月に写真集を製作、「遊び人15年」としての一区切りをした。が、「何時までも夢の続き」の気持ちで写真に山遊びに取り組みたいと思っている。

 遊び人になって21年、第二幕では7年目を迎える。ネパール・ヒマラヤでは主要な山群のほとんど歩き多くの山々を撮ってきた。ゴーキョへは5度も訪れている。その他の山群でも撮り残した山々を探しては再訪してきた。訪れるたびに新しい発見もあり何時も新鮮な気持ちで朝に夕にシャッターを押してきた。心残りの場所や景色はあるが、それなりに気持ちや体力が必要になり、そろそろ終わりにしようかなと思っている。
しとみ会の思い出

 昭和40年に(株)京三製作所に入社、その時の高卒同期会が「しとみ会」、各氏も65歳になり、それぞれ第二の人生を歩んでおられます。が、不幸にしてお亡くなりになられた人もおられます。年1回の忘年会では、お互いの近況を語りながら楽しいお酒をいただいています。 入社当時は70数名いた会員も、結婚や転職などで今現在の会員は31名になりました。寂しいかぎりです。そんな事もあって、若かった頃(今も若さを保っている御仁もおられますが)の懐かしい思い出をアルバムから探して掲載しました。(2012.05.30)
        しとみ会の思い出

戻る